民主主義の神話その9: 自由と寛容に等しい
自由と民主主義はセットで来るかのように思っている人は多い。じっさいは互いに正反対のものである。民主主義では政府の決定から逃れられる人はいないのだ。命令に従わなければ罰せられる。この意味では独裁制と基本的に違いはない。
民主主義がまだ崇められていなかったころ、アリストテレスはこう書いた。「制限されない民主主義は、少数による大多数への暴政と変わるところはない。」
自由とは多数派に従わなくていいということであり、自分に決定権があるということだ。
人々の自由な契約への干渉は、ある人々を利するかもしれないが、必ずある人々に害を与える。たとえば、人々を解雇から守ることはある人々に利益を与えるが、経営者に新しい人々を雇用する気をなくさせる。厳しい労働法のもとでは、できるだけ人を雇わないのが得策になる。景気のいい時でさえもだ。低スキルの労働者はとりわけ排除されやすくなる。仕事を持つ人々も高失業率に怯えて転職を躊躇するようになる。
民主主義は、国家が人々に行動を命令するというだけではない。あらゆる物事について、国家から許可を得なければならないのだ。われわれの自由は国家によって認められているのであり、いつでも取り消される。
スウェーデンでは、高アルコールの酒は国営の店からしか買えない。多くの国で売春は違法だが、ノルウェー人の場合はとくに、海外で買春することも違法である。オランダでは家の外装を変えるのに政府の許可がいる。これらのことは、独裁政治であり、自由ではない。
民主主義では少数派に対する寛容はなく、とりわけ言論の自由もない。どんな民主主義国家も、言論の自由を制限するあらゆる法律がある。オランダでは女王を侮辱することは禁止されている。アメリカでは「わいせつ」「名誉毀損」「扇動」「ハラスメント」「企業秘密」「機密文書」「著作権」など言論の自由についてじつに様々な例外規定がある。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 9 - Democracy equals freedom and tolerance)
民主主義の神話その8: 連帯感のために必要である
連帯感と民主主義はよく結び付けられるが、それは違う。民主主義とは言ってみれば税金略奪闘争における適者生存の論理なのだから、連帯感とはまったく逆だとも言える。
民主主義のもと、みんなで物事を決定しなければ、国民の一体感が失われると思うかもしれない。たしかにある意味において国家はコミュニティの一種であり、それは良いものでもありうる。けっきょく人は一人で生きられないし、経済的理由からも仲間を作る必要があるからだ。
だが、そういう一体感のために、はたして民主主義というのは必要なものなのだろうか?
人々は言語、文化、そして歴史を共有する。しかし、これらは何ら民主主義とは関係がない。民主主義より前に存在したし、これからも民主主義なしで存在できる。
同時に、どんな国でも多くの地域的・民族的コミュニティが国内に存在し、それぞれが強い連帯をもっている。しかし、これらは民主主義的でない社会、すなわち自由社会と共存できるものなのだ。
重要な点は、これらの地域的・民族的コミュニティが自発的なつながりであるということである。つまり政府によって強制されたものではない。
たとえば入会したテニスクラブが合わなかったら、いつでもやめられるし、あるいは自分でクラブを立ち上げることができる。しかし、ある政府が管理する国にたまたま生まれついたら、そこから逃れることはできない。
民主主義とは強制的に会員にさせられる組織である。いっぽう、真のコミュニティとは自発的な参加に基づくものである。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 8 - Democracy is indispensable to a sense of community)
民主主義の神話その7: 人々が調和の中で生きていくために必要不可欠である
友達のグループでどこのビーチに行くかを決めるという程度なら、多数決で解決が図れるかもしれない。でも大抵の場合、問題解決に多数決というのは必要がないし、実際、そういう民主主義は争いを引き起こすことのほうが多いのである。
民主主義は個人的な問題を集団的問題に変え、個人を民主的決定に従わせることで、調和というよりも、対立を生み出すのだ。
義務教育はどうあるべきだとか、高齢者医療にいくら使うべきだとか、あらゆることが「民主的」に決められる。そして人々の間に対立と緊張を引き起こすのである。だが本来、こういう問題は、人々に自分自身で選択させ、責任を取らせることで、簡単に解決できるのだ。
もし、どの種類のパンを毎日どれぐらいの量焼くべきかを民主的に決定するとしたらどうだろう。終わりのないロビー活動、政治キャンペーン、討論会、ミーティング、抗議集会が繰り広げられるだろう。全粒粉支持者が多数を得て、補助金を獲得し、ことによると白パンを禁止するかもしれない。
民主主義の不幸な帰結は、それが人々に集団を形成させやすいために、集団間の争いを必然的に招くということである。というのも多数派の集団に属しているときにのみ、あなたの考えが法律になるからだ。
老人は若者と対立し、農民は都市住民と対立し、移民は住民と対立し、キリスト教徒はイスラム教徒と対立し、信者は無神論者と対立し、労働者は経営者と対立する。あるグループは同性愛を罪であると考える一方、あるグループは学校教材に模範になるゲイを載せよと言う。考え方が違えば違うほど、大きな衝突になる。
信教の自由は何世紀も前に発展し、宗教間の対立を減らしてきた。だが今日、民主主義がそれと同じようにあらゆる分野で人々の間に緊張を生んでいるということに、ほとんどの人が気付いていないのである。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 7 - Democracy is necessary to live together in harmony)
民主主義の神話その6: 公平な富の分配の保証と、貧者救済のために不可欠である
ざっと言って、人々が生産したものの半分を政府がとり、再分配する。その大部分が利益団体に行く。EUの予算のうち5分の2は農業補助金だ。ほかに発展支援団体、銀行、大企業、テレビ局、環境団体、文化組織などが何十億もの助成金を得る。
圧力団体は助成金や特権、仕事を求めて際限のない闘いを行なう。皆が公的資金の入った飼い葉桶から食事にありつこうとするのだ。
圧力団体はまた、いかに法制度に影響を与えるかについての方法も知っている。たとえば価格上昇を通じて農業を利する輸入割当制度であったり、労働組合が労働市場の競争を制限して賃金を高止まりさせようとする最低賃金制度である。これは低教育の人が仕事にありつけないという犠牲を払っている。
免許制度もそうである。これは競争相手を締め出す手っ取り早い方法だ。薬のインターネット販売規制や医師の免許制などである。特許や著作権についても免許制と同じものだと言える。
輸入割当制度(農産物の高価格)で犠牲になるのは、農業に携わらない大多数の国民である。しかし、一消費者あるいは一有権者の立場からすると、いちいちそれを糾弾するほど暇ではない。それどころか、こういう甘い汁を吸う人たちの存在を知らないというのが、国民の大部分だろう。じっさい、このような制度はかなりのコストを市民に負わせ、生活水準を下げるものであるのに。
貧しい人を助ける福祉について考えてみよう。たとえば教育や医療である。これらはどこの国においても自由市場はなく、政府にコントロールされている。それが貧しい人を締め出さないために当然と考えられている。だが、その結果はどうか。公教育は問題だらけだし、医療制度もそうである。
いっぽう、自由市場が行き渡っているスーパーマーケットはどうか。競争により価格が下がり、貧しい人でも食料品を買える。また昔は金持ちしか買えなかったクルマやパソコン、携帯電話などは、自由市場のイノベーションにより、今やブルーカラーの労働者や学生でも持つことができるではないか。
もし食料品店が、あるいはパソコンメーカーが、民主主義のもと公立学校のように組織されていたらと考えると恐ろしい。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 6 - Democracy is necessary to ensure a fair distribution of wealth and help the poor)
民主主義の神話その5: 繁栄をもたらす
逆である。民主主義は富を破壊する。
民主主義でなくとも繁栄している国家はある。シンガポール、香港、湾岸諸国などである。一方、アフリカや南米では多くが民主主義国であるが、貧しい。
西側諸国は「民主主義にもかかわらず」裕福であると言うべきである。自由の伝統があるおかげで今の繁栄があるのだ。
繁栄する国家というのはどこでも財産権が十分に保護されている。言い換えれば労働の果実を所有できるということである。そういう状況では人々は一生懸命働き、リスクをとり、資源を有効に利用する。
ところが民主主義国家では、労働の果実は国に取られてしまい、人々はベストを尽くさなくなる。さらに、国は取ったものを効率的に使わない。結局のところ、民主主義の統治者たちは非生産的であり、生産する人々と異なる目的をもっているのである。
10人で食事をするとしよう。参加者にはあらかじめ割り勘にすることが伝えてあるとする。一人の参加者の立場からすると、食事代の90%は他人が払うのだから、普通では頼まないような高いものを注文するインセンティブがある。
これは経済学で「共有地の悲劇」として知られる。牧草地を共有すると、どの酪農家もできるだけ時間をとり、自分の牛に多く食べさせようとする。皆で所有することは誰も所有しないということと同じであり、結果は過剰な牧草の消費である。
民主主義はこれと同じなのだ。人々は他人の出費で利益を得ようとする。あるいは負担を他人に押し付けようとする。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 5 - Democracy leads to prosperity)
民主主義の神話その4: 政治的に中立である
民主主義は実際に中立などでない。それは本来的に集産主義であり、政府の干渉と個人の不自由に向かうものである。なぜそうなるかというと、人々がいつも政府に要求を行ない、そのコストを他人に支払わせたがるからである。
民主主義はその本質において全体主義の思想なのである。そこにはどんな自由の聖域もない。個人の生活のすべての側面が政府のコントロールを受ける。そして少数派は多数派の気まぐれに完全に翻弄されるのである。人々は投票することによって、その独立と自由を、多数派の意思に売り渡すことになるのである。
真の自由とは、システムに参加しない自由であり、それにお金を払わない自由である。電気屋に行って、どんなにたくさんのブランドのテレビが置いてあったとしても、それを買うことを強制されている状態は自由とは呼べず、何も買わない自由があるときが真の自由と言えるのである。そこで民主主義とは、あなたの買うテレビを多数派が決めるというシステムである。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 4 - Democracy is politically neutral)
民主主義の神話その3: 多数派が正しい
多くの人が信じているからといって正しいとは限らない。集団的幻想の事例は数多くある。地球は平らだとか、王は神の代理であるとか。奴隷制やユダヤ人迫害も昔は多くの人が正しいと思っていたのだ。
民主主義においては、道徳的判断は多数派の意思にゆだねられる。量が質に勝るのだ。すなわち、何かを欲しがる人の数自体が、道徳的な判断や合理的な判断よりも優先される。
もし路上で強盗を行なったら、処罰される。でも、たとえばアルコールやタバコの課税のように、多数派が少数派から強奪する法律を通すことは、民主的決定であり、またそれゆえ合法的なのである。だがこれと路上強盗はいったいどう違うというのだろう。
(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 3 - The majority is right)