アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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民主主義の神話その2: 人民が統治する

そもそも「人民」というのは存在しない。たくさんの意見や利害があるだけなのだ。「人々がペプシを欲しがっている」という場合でも、ある人々がそれを欲しがっているというだけなのである。政治的嗜好についても同じことが言えるだろう。人々全体の嗜好や意見があるのではなく、個人のそれがあるだけなのだ。

 

たとえば教育について考えてみよう。どんな教育が最善かということについては、各々が意見をもっている。でもそこに民主主義がくると、それはフリーサイズの服のように決められてしまう。個人の好みがむりやり全体に合わせられてしまうのだ。

 

そもそも民主主義において実際に主権を握っているのは、人民の意思ではなく、政治家の意思である。そして、それらはプロのロビイストや利益団体、活動家の意向を受けている。そこでは多数が反対するような意見が通るのだ。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 2 - The people rule in a democracy)

民主主義の神話その1: すべての票に価値がある

「すべての票に価値がある」というのは、「すべての票に無視できるほど微小な価値がある」ということであり、実質どの票にも価値(影響力)がないということだ。

 

他の99.9999%の人の投票によってあなたの運命は決まる。そこで投票とは「自由を失う代わりに得られる、影響力の幻想」とも言うことができる。

 

支配階級は、国民を投票に行くよう促す。あなたの一票が政治を変えるとウソを言って。本音は、投票率が上がると、国民の信認を得られたということで、支配の口実になるからである。

 

多くの人が、選挙に行くのは義務であると考えている。でもそういう人たちは、民主主義が「影響力の幻想」を押し売りしているだけということに、まったく気付いてないのだ。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 1 - Every vote counts)

 

民主主義に関する13の神話

参院選がまもなく公示されますね。選挙は民主主義というものを考える良い機会だと思います。

 

フランク・カルステンとカレル・ベックマンによる共著 Beyond Democracy には13個の民主主義の神話が集められています。

 

神話その1: すべての票に価値がある(Every vote counts)

 

神話その2: 民主主義においては人民が統治する(The people rule in a democracy)

 

神話その3: 多数派が正しい(The majority is right)

 

神話その4: 民主主義は政治的に中立である(Democracy is politically neutral)

 

神話その5: 民主主義は繁栄をもたらす(Democracy leads to prosperity)

 

神話その6: 民主主義は、公平な富の分配の保証と、貧者救済のために不可欠である(Democracy is necessary to ensure a fair distribution of wealth and help the poor)

 

神話その7: 民主主義は人々が調和の中で生きていくために必要不可欠である(Democracy is necessary to live together in harmony)

 

神話その8: 民主主義は連帯感のために必要である(Democracy is indispensable to a sense of community)

 

神話その9: 民主主義とはすなわち自由と寛容に等しい(Democracy equals freedom and tolerance)

 

神話その10: 民主主義は平和を促進し、政治腐敗との闘いにも資する(Democracy promotes peace and helps to fight corruption)

 

神話その11: 民主主義のもとで人々は望むものを得る(People get what they want in a democracy)

 

神話その12: 我々は皆、民主主義者である(We are all democrats)

 

神話その13: 他に(より優れた)選択肢はない (There is no (better) alternative

 

次回より、これらを個別に紹介していきたいと思います。ぜひ投票行動の参考にしてください。

ツイッターはなぜすごいのか

「自分のランチについて世界に発表するなんて、他にやることがないのかな。」

 

数え切れない数の人が、ツイッターについて私にこんなことを言ってくる。私はもう相手にするのをやめた。彼らはお高くとまり、FacebookYouTube、Angry Birds、あるいはスマートフォンやデジタルライフそのものに対しても見下した態度をとるのだ。

 

もっとも、インターネットをまったく拒否するという人は最近ではほとんどいなくなった。10年前はそれがふつうだったのだが。今は何か特定のアプリを拒否するというふうに変わり、自分の時間はとても貴重なんだ、子どもの世話で忙しい、そんなものはゆとり用のくだらないおもちゃだ、などと言って無視する。

 

Facebook,、LinkedIn、Pandoraについては前にも書いたことがある。それらの人気が妥当というだけでなく、人類の福祉にとてつもない貢献をしているのだと。共通するのは、個人の意志の力、そしてダイナミックに自己組織化していく自由連合ということである。人々の間に天地創造以来存在していたバリアが壊され、新しいサービス、学習の方法、人とつながる手段を提供しているのだ。

 

さてツイッターはどうだろうか。人々がひどく嫌うことを愛してやまないこのサービス。使わない人は「ツイッター(嘲笑)」と言う。あらゆる人気のソーシャルアプリのなかでも図抜けて使いやすいが、同時に、誰ともつながりのない初期状態では、最も生活に組み込むことが難しいアプリだ。

 

大人たちはサインアップしたあと、それをじっと眺める。フォロワーは一人もおらず、自分もまた誰もフォローしていない。それはまるでマーレイの亡霊のようだ。もちろん、あなたはランチに食べたサンドイッチについて、いつでもニュースを送信することができる。だが、そんなことをして何になるのだ?その点Facebookは、大人がウェブサイトに(皮肉にも)求める満足を、ずっと即座に与えてくれる。ツイッターは自分で構築しないといけないアプリである。

 

でも考えてもみよう。失業者数が発表されるときは通常、私は労働統計局からメールを受け取るのだが、この前など私はメールが来る前に数字を知っていたのだ。つまり数字の裏にある残酷な現実を知っていた。大手の新聞がいかにその数字をいじくりまわすか、私にはわかっていた。私は公開された図表にアクセスし、労働市場の動向が、他の市場動向とどう関連しているかについて見ることが出来た。そして私は自分が評価した図表を再投稿し、それに自分で考えたことを加えることにより、自分自身でニュースに反応することが出来たのだ。そしてようやく、統計局からメールがやってきた。

 

以上はツイッターの日常的な利用例である。だが、これは無限の利用可能性のうちの一つの例にすぎない。アプリを落とし、気になるものをフォローする。一度始めて使えるようになったなら、この一見軽薄な装置が、とてつもなく驚異的なものなのだとわかり始める。ツイッターというのは、あらゆる情報の生産と消費を、極端なまでに個人的・民主的・普遍的なものにする。それは世界をカスタマイズ可能なコミュニケーションの市場に変えるという、歴史上どの世代も経験したことがないものである。

 

このカスタマイズ性のために、ツイッタラーはどうでもいい話で時間を浪費する、中身のないバカだと揶揄される。だが、政治的な革命状態における人々が、ツイッターを使い意思を伝達しあい、戦略を練り強力な軍隊の裏をかくことによって、独裁者から逃れ、組織化されるのを見るとき、あなたは立ち止まって考えざるをえないはずだ。

 

情報を生み出す手段という点では、どのユーザーも他のすべてのユーザーと潜在的に同じ力をもっている。もし影響力が変わってくる可能性があるとしたらそれはフォロワー数の違いだ(私は700人、レディ・ガガは2000万人)。だがそれは真の決定要因ではない。というのも、どんなメッセージもリツイートされる可能性があり、一人に送られたメッセージは、瞬時に1億4000万人に送信されうるからだ。

 

これは何を意味するか。ニューヨーク・タイムズホワイトハウスが、たったいまピザ屋で自分のビールの注文を受けた店員と、技術的にまったく同じ力をもつということだ。メッセージの届き方は、完全に他のユーザーによって決定される。分配は常軌を逸した能力主義制度になる。

 

情報を消費する手段ということでは、あなたはどんな有名人や大御所、機関、政府高官のツイートにアクセスすることができ、一流のレポーターやその他の機関に何も引けをとらない。そしてこのことはレディ・ガガのような人たちがツイッターを好む理由でもある。公的な人物は皆このことを好んでいるだろう。ただし、この真実を瞬時に伝える強力な道具に最も脅かされている独裁者たちはそうではないだろう。

 

現在、ツイッターは1日につき16億件もの検索クエリを処理しており、また3億4000万ものツイートの送信に使われている。人気サイトトップ10の常連である。惑星に住む全員が無料でサービスを使うことができる。ビジネスモデルとしては、検索結果に表示される企業の広告ツイートから収益を上げている。また同時に、ツイッターフィードを自社サイトへ表示させるソフトを使用する大手IT企業に課金している。

 

あなたはツイッターに飛び込んで、派手なことをしてみたいと考えるかもしれない。でもすぐに不快な事実に気づくことになる。ツイッターはフォローしてもらう他人を招待できないというシステムなのだ。他人があなたの方に行かなければならない。この点ツイッターFacebookよりも攻略が難しい仕組みだといえる。

 

まず最初のステップは関心のある団体や個人をフォローすることだ。彼らはあなたにフォローされたことを通知される。彼らがお返しにあなたをフォローしてくれる可能性はある。だが彼らにそうさせる手段はない。フォロワーを増やす一番いい方法は、この世界にどっぷりつかっている人にあなたを推薦してもらうことだ。ただ、それでもあなたのつぶやきに興味を持ってくれる人を相当数確保するというポイントまでの道のりは長い。

 

あなたはどうして思い悩むのか。他人のツイートに関心もなければ自分でツイートしたいこともないという人もいるだろう。そして彼は死ぬまでそういう態度を取り続ける計画だ。ツイッターからするとその人に価値はない。いっぽう、彼を除くすべての人々にとっては、ツイッターはありとあらゆるものに関する情報を入手し、中継するための素晴らしいソースである。それによって利益を得ない人は惑星上にほとんどいないということだ。

 

キャリアを積んでいく人にとっては、ツイッターのフォロワーという資源は、あなたがどこに住んで、どこで働くことになろうとも、つねに蓄積し運用される人的な資本の一部ということである。この意味において、ツイッターはあなたの自由とパワーにとって欠かせないものになりうる。それは所属する集団への依存を減らし、あなたが自分の人生をコントロールするのを助けてくれる。

 

ツイッターは有名人にとってはむしろ明らかに不可欠なものである。ビジネスについても同じことが当てはまる。あなたにフォロワーがいるなら(私はビジネスをフォローするのが好きです!)、特典やお得な情報をすぐに渡すことができるし、それもタダでできる。こんなにいいことがあるだろうか。

 

どんな個人にあっても、常に他人を必要とするし、他人に情報を伝えることは大事なことである。あなたは危険な目にあうかもしれない。すごいニュースを聞くかもしれない。助けを呼ぶ必要が出てくるかもしれない。こういうとき、あなたは自分の生死に関心をもってくれる人々という貴重なネットワークを構築し、備えてきたことをありがたく思うだろう。間違いなく、国家はあなたのことをあまり気にしていない。互いに気にかける、そういう連合をつくるのは私たち自身が行なうべきことなのだ。

 

こういうわけで私はツイッターに大変興味をもっている。あらゆる国々において国家の圧政から人間の自由を守る、という世界的な潮流をつくるためにそれが使われることを期待する。ツイッターに国境はない。ツイッターにとって国家は存在しないし、見せかけだけの国家も存在しない。ツイッターは誰の計画もフォローしない。ツイッターはどんな権威にも服従しない。それは自由な人々がつくる自己秩序の可能性を証明している。ユーザー情報を提出せよという政府の圧力にも屈しないツイッター社も本当に賞賛に値する。

 

ツイッターによって、個人一人ひとりが皆、個人的パワーの重要な要素をもった、私的統治のための単位になる。その要素とはつまり、この世で最も価値のあるコモディティすなわち「情報」を得ながら、いかなる瞬間にも世界とつながることができる能力ということである。

 

こういうわけで、ツイッターというのはとてもすごいものなのだ。

 

最後にどうぞ@jeffreyatuckerのフォローをよろしくお願いいたします。

 

(これはジェフリー・タッカー氏が2012年5月9日に Laissez Faire Today へ投稿した記事「What Makes Twitter Great」を翻訳したものです。)

デフレは病気

風邪を引いたときどうしますか。私は何も食べずにじっと休んでいるのが一番だと思います。体調が悪いときは空腹にしているのが最も回復を早めると考えます。薬は飲みません。野生の動物も断食によって不調やケガを治すそうです。病気になると食欲がなくなるのは、空腹にして自然治癒力を引き出すためであり、動物は本来そのようなメカニズムを備えているのですね。

 

ヒポクラテスは「自然こそが最良の医者である」と言いました。動物の体はそれ自体、本来的に不調を治すメカニズムをもっているのです。そして医聖によれば病気とは失われたバランスを取り戻そうとしている状態のことなのです。

 

体の不調は薬や手術で治るのではなく、休養によって治癒力が十分働くことによって治るのです。医者や病院は、薬や手術で治るのだと人に信じこませる経済的インセンティブがあるだけです。

 

私は経済の不調についても同じように考えます。社会には価格メカニズムという強力な力をもち横たわっている自生的秩序があります。価格メカニズムはいわば自然治癒力です。市場というのは、複雑な諸要素が見えざる手によって、できるだけ良い状態つまり効率的な状態に調整されるようできているのです。レッセフェールとはまさに「ほっとけば治る」という意味です。

 

政治家と御用経済学者は、薬や手術をすすめる医者や病院と同じで、経済の不調は金融政策で治るのだと人に信じこませる経済的インセンティブをもっています。(「ほうっておくと危ない」と患者を煽りながら。)

 

デフレは価格メカニズムによって経済の不調が治っている過程です。価格を調整し、失われたバランスを取り戻そうとしている状態で、ヒポクラテスが言うところの病気です。体の不調が正常に戻る過程が病気ならば、それは悪いことではなく良いことです。

 

経済の不調に金融政策という薬や手術はいりません。

リバタリアンな生き方はあるか

■なぜリバタリアンは自己責任論者か

 

小泉政権の時代、その「自己責任論」が賛否の分かれる議論になりましたね。リバタリアンはイコール「自己責任論」者とみなされたり。

 

でもリバタリアニズムの一般的な定義は「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える」ということです。べつに「自己責任」がどうとは書いてないんですよね。

 

昨年大きく話題になり、また実際に法改正に影響を与えた生活保護論争。リバタリアンがこれに反対する理由は、そういう苦境に陥った人の自己責任を言っているのではなく、(原理的には)生活保護のために税金をとって他者の権利を侵害しているからです。

 

あるいは「自己責任」が自助努力を促す制度のことを言っているのだとしても、やはり上のリバタリアンの定義ではないです。ミルトン・フリードマンの提唱した負の所得税は、その自助努力を促す側面がリバタリアンに支持されるようです。しかしそれはやはりリバタリアニズムの定義ではないです。

 

(ところで最近「新自由主義」にかわって「フリードマン主義」なるバズワードが出てきているとか。あとベーシックインカムの性質を強くもつ負の所得税は、実務的に効率的な福祉制度につながるかもしれませんが、リバタリアニズムに大きく反するものです。やはり税金によって他者の権利を侵害しています。)

 

しかしリバタリアンは「自己責任」や「自助努力」を好みます。いったいどういうことでしょうか。

 

「自己責任」の否定は「社会の責任」の肯定となり、社会主義、政府と税金、他者の権利の侵害というふうにつながっていき、それゆえリバタリアンは自己責任論者であると説明できるかもしれません。

 

しかしこれは原理主義リバタリアニズム帰結主義リバタリアニズムの違いと考えるほうが説明しやすいと思います。けっきょく「自己責任」や「自助努力」を促す制度のほうが(経済的に)効率的であるということです。

 

リバタリアンな生き方はあるか

 

たとえば子供を公立学校にやらないとか、あるいは一歩進んでホームスクーリングにするというのはリバタリアンな生き方と言えるかもしれません。政府サービスを極力使わないようにした結果、郵便局や図書館どころか電気・ガス・水道を使わず、山の中で暮らすというのも一つのリバタリアン的な生き方と言えるでしょう。

 

しかしもっと大きく捉えて、一般にリバタリアンな生き方とは「自己責任」の生き方と言ってみることができるのではないでしょうか。

 

Microsoft Wordの開発者であるリチャード・ブロディのベストセラー『夢をかなえる一番よい方法』には次のように書かれています。

 

「素晴らしい人生のために責任を引き受ける」

 

「責任を引き受ければ、あなたの力は最大になる」

 

「人生は、自分の選択から生じている」

 

じっさいは、飲酒運転の車が突っ込んでくるとか、会議でインフルエンザをうつされるとか、我々の不幸は他人の選択や行為から多くが生じているのは事実です。あなたが低学歴で低所得そして低身長なのは、遺伝と環境が悪かったせい、つまり親のせいと言えるでしょう。

 

世の中、個人の力だけではどうしようもないことばかりかもしれません。だから、ある人が生活保護を受けたりしなければいけないのは、自己責任や自助努力うんぬんではなく、社会が悪いからだ、あるいは持って生まれた運が悪かったからだとの主張もありうるでしょう。これは突き詰めていくと社会主義になります。

 

どんなに他人が悪かろうが、結果は自分のせいと考えるのがよいとブロディは言います。なぜならそれが自分の問題の解決や改善、つまり夢の実現につながるからです。同時に責任を自分で全部とることは、その人の力になるからです。

 

責任を引き受けることは

 

「人生をもっと楽しむことができるし、同時に効率よく生きられる。こんなにおいしい話はなかなかない!」

 

「力を取り戻し、すべての資源を一番大切なことに集中させることができる」

 

のです。

 

ついつい他人のせいにする、あるいは運のせいにするのが人間であり、こういう考え方ができるのは強い人間だけだと思います。しかし逆に、このようなモノの見方は弱い人間が強くなる思考法だとも言えます。なかなか気づかないことや意外な方法を発見させてくれるからです。(たとえば満員電車の通勤地獄は自分が選んだ結果である。始発電車で行くか、それとも歩いて通える都心に引っ越すか、それともいっそのこと日本を脱出するか。)

 

そしてこういう物事の捉え方あるいは人生哲学は、政治思想のリバタリアニズムと整合的であり、リバタリアンな生き方と言えると思います。社会の幸福のために「自己責任」の制度を社会に求めるのがリバタリアニズムですが、自分の幸福のために自分に対しても「自己責任」の制度を求めていくのがリバタリアンな生き方と言えるかもしれません。

 

バターミルクって何?

去年から一日一食や糖質制限など、いろんな食事法を試しています。そして最近出会ったのがインドの伝統医学「アーユルヴェーダ」というもの。内容を見るとなんともオカルトな雰囲気なのですが、それ自体「生命科学」という意味の、自称科学なのです。 アーユルヴェーダでは牛乳が良い食品とされるのですが、「バターミルク」もいいと書いてありました。聞いたことがないですが、もしかして(日本人の7~8割を占める)乳糖不耐症でも飲めるのだろうかと調べていたところ、驚きの事実がわかりました。

 

バターミルク - バター製造時に出来る液体のことである。欧米ではスーパーマーケットで買えるほどメジャーな飲料であるが、日本では省令上乳製品にならないため主にバターミルクパウダーに加工される。> 乳製品 - Wikipedia 省令上乳製品にならない? 乳及び乳製品の成分規格等に関する省令 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26F03601000052.html なるほどこの省令のなかには「バターミルクパウダー」はありますが「バターミルク」はありません。たしかにバターミルクは法律上、乳製品にならないと言えるでしょう。 しかし別表に一箇所だけバターミルクの記述があります。 <(五) 乳等の成分又は製造若しくは保存の方法に関するその他の規格又は基準  (2) 加工乳以外の乳、クリーム、濃縮乳及び脱脂濃縮乳にあつては他物(牛乳、成分調整牛乳、低脂肪牛乳、無脂肪牛乳、クリーム、濃縮乳又は脱脂濃縮乳を超高温直接加熱殺菌する場合において直接殺菌に使用される水蒸気を除く。)を混入し、加工乳にあつては水、生乳、牛乳、特別牛乳、成分調整牛乳、低脂肪牛乳、無脂肪牛乳、全粉乳、脱脂粉乳、濃縮乳、脱脂濃縮乳、無糖練乳、無糖脱脂練乳、クリーム並びに添加物を使用していないバター、バターオイル、バターミルク及びバターミルクパウダー以外のものを使用しないこと。> この記述では、バターミルクは加工乳に使用してよいと読めます。つまりバターミルクを含む加工乳(とうぜん乳製品)というのは論理的に可能であり、よって100%バターミルクからなる乳製品も可能ということです。 もしかすると、バターミルクをそのまま売ることは法律的には問題ないのかもしれません。じっさいにスーパーの店頭に並ばないのは別の理由があるからではないでしょうか。 調べると下記のような補助金制度があることがわかりました。 加工原料乳生産者補給金等暫定措置法 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S40/S40HO112.html 加工原料乳生産者補給金制度の交付要綱等|農畜産業振興機構 http://www.alic.go.jp/r-keiei/raku03_000002.html <酪農経営の安定と牛乳・乳製品の安定供給を図るため、飲用向けに比べて価格が安いバターや脱脂粉乳などの乳製品の原料となる生乳(加工原料乳)を販売した生産者に加工原料乳生産者補給交付金を指定生乳生産者団体を通じて交付しています。ここに当制度の交付要綱等を掲載いたします。> <(参考)生産者補給金の対象となる加工原料乳の用途 バター、脱脂粉乳、全脂加糖れん乳、脱脂加糖れん乳、全粉乳、全脂無糖れん乳、加糖粉乳、脱脂乳(子牛ほ育用)> 要綱を見ると、補助金は一定量の乳と特定の用途についてのみ与えられるということ。しかしその特定用途にはバターミルクは入っておらず、別の用途に使うインセンティブがあるということのようです。 つまりバターミルクが製品として加工されないのは、この補助金制度のためだと考えられます。おそらく省令ではありません。 <バターミルクは、バター製造のために脂肪分が既に取り除かれていることにより、通常の牛乳と比べて脂肪やカロリーが低い。カリウムビタミンB12、カルシウムが豊富である。バターミルクは、牛乳よりも消化がよく、スキムミルクよりも多くの乳酸を含んでいる。消化がよいため、たんぱく質やカルシウムが体内に吸収されやすい。牛乳1杯あたり、157kcal、脂肪分8.9gであるのに対して、バターミルクは1杯あたり、99kcalで、脂肪分2.2gである。ただし、スキムミルク低脂肪乳から作っているものもあるため、脂肪の量はブランドによって異なる。> バターミルク - Wikipedia 日本人はもともと牛乳を飲みません(昔の時の権力者が仏教に影響されたため)。またじっさい多くの人は下痢になるので飲んできませんでした(乳糖を消化する酵素を作る遺伝子をもたないため)。以上のことから日本では牛乳毒説を支持する人も多いです。しかし2~3割の人は牛乳あるいはバターミルクを飲めるのであり、このように優れた効能をもつ食品なら、自由市場では十分な可能性で出現するはずなのです。 省令であろうと補助金制度であろうと、いずれにせよ政府のせいでバターミルクのような健康食品が失われるのならば、それは本当に「もったいない」ことです。