アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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リバタリアンな生き方はあるか

■なぜリバタリアンは自己責任論者か

 

小泉政権の時代、その「自己責任論」が賛否の分かれる議論になりましたね。リバタリアンはイコール「自己責任論」者とみなされたり。

 

でもリバタリアニズムの一般的な定義は「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える」ということです。べつに「自己責任」がどうとは書いてないんですよね。

 

昨年大きく話題になり、また実際に法改正に影響を与えた生活保護論争。リバタリアンがこれに反対する理由は、そういう苦境に陥った人の自己責任を言っているのではなく、(原理的には)生活保護のために税金をとって他者の権利を侵害しているからです。

 

あるいは「自己責任」が自助努力を促す制度のことを言っているのだとしても、やはり上のリバタリアンの定義ではないです。ミルトン・フリードマンの提唱した負の所得税は、その自助努力を促す側面がリバタリアンに支持されるようです。しかしそれはやはりリバタリアニズムの定義ではないです。

 

(ところで最近「新自由主義」にかわって「フリードマン主義」なるバズワードが出てきているとか。あとベーシックインカムの性質を強くもつ負の所得税は、実務的に効率的な福祉制度につながるかもしれませんが、リバタリアニズムに大きく反するものです。やはり税金によって他者の権利を侵害しています。)

 

しかしリバタリアンは「自己責任」や「自助努力」を好みます。いったいどういうことでしょうか。

 

「自己責任」の否定は「社会の責任」の肯定となり、社会主義、政府と税金、他者の権利の侵害というふうにつながっていき、それゆえリバタリアンは自己責任論者であると説明できるかもしれません。

 

しかしこれは原理主義リバタリアニズム帰結主義リバタリアニズムの違いと考えるほうが説明しやすいと思います。けっきょく「自己責任」や「自助努力」を促す制度のほうが(経済的に)効率的であるということです。

 

リバタリアンな生き方はあるか

 

たとえば子供を公立学校にやらないとか、あるいは一歩進んでホームスクーリングにするというのはリバタリアンな生き方と言えるかもしれません。政府サービスを極力使わないようにした結果、郵便局や図書館どころか電気・ガス・水道を使わず、山の中で暮らすというのも一つのリバタリアン的な生き方と言えるでしょう。

 

しかしもっと大きく捉えて、一般にリバタリアンな生き方とは「自己責任」の生き方と言ってみることができるのではないでしょうか。

 

Microsoft Wordの開発者であるリチャード・ブロディのベストセラー『夢をかなえる一番よい方法』には次のように書かれています。

 

「素晴らしい人生のために責任を引き受ける」

 

「責任を引き受ければ、あなたの力は最大になる」

 

「人生は、自分の選択から生じている」

 

じっさいは、飲酒運転の車が突っ込んでくるとか、会議でインフルエンザをうつされるとか、我々の不幸は他人の選択や行為から多くが生じているのは事実です。あなたが低学歴で低所得そして低身長なのは、遺伝と環境が悪かったせい、つまり親のせいと言えるでしょう。

 

世の中、個人の力だけではどうしようもないことばかりかもしれません。だから、ある人が生活保護を受けたりしなければいけないのは、自己責任や自助努力うんぬんではなく、社会が悪いからだ、あるいは持って生まれた運が悪かったからだとの主張もありうるでしょう。これは突き詰めていくと社会主義になります。

 

どんなに他人が悪かろうが、結果は自分のせいと考えるのがよいとブロディは言います。なぜならそれが自分の問題の解決や改善、つまり夢の実現につながるからです。同時に責任を自分で全部とることは、その人の力になるからです。

 

責任を引き受けることは

 

「人生をもっと楽しむことができるし、同時に効率よく生きられる。こんなにおいしい話はなかなかない!」

 

「力を取り戻し、すべての資源を一番大切なことに集中させることができる」

 

のです。

 

ついつい他人のせいにする、あるいは運のせいにするのが人間であり、こういう考え方ができるのは強い人間だけだと思います。しかし逆に、このようなモノの見方は弱い人間が強くなる思考法だとも言えます。なかなか気づかないことや意外な方法を発見させてくれるからです。(たとえば満員電車の通勤地獄は自分が選んだ結果である。始発電車で行くか、それとも歩いて通える都心に引っ越すか、それともいっそのこと日本を脱出するか。)

 

そしてこういう物事の捉え方あるいは人生哲学は、政治思想のリバタリアニズムと整合的であり、リバタリアンな生き方と言えると思います。社会の幸福のために「自己責任」の制度を社会に求めるのがリバタリアニズムですが、自分の幸福のために自分に対しても「自己責任」の制度を求めていくのがリバタリアンな生き方と言えるかもしれません。