アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

★無政府資本主義の理論(経済学)◆リバタリアニズム▽海外リバタリアンの文献翻訳■時事問題・日常生活▼ロンドン暮らし

ピーター・フランクルは正しかったか?

ちょうど3年前のことだ。繁華街でピーター・フランクル氏が大道芸をやっているのを見かけた。買ったばかりのiPhone3GSで数分ほど動画の撮影をしていたところ、本人より「撮るのやめてもらえますか」と流暢な日本語で注意された。撮影禁止の注意書きがあるのに気づかなかったのだ。

 

しばらく彼のジャグリングを楽しませてもらい、私はまたぶらぶらと歩き始め、そこでふと思った。いったいどうしてフランクル氏は見物人に撮影を禁止する権利があったのだろうかと。仮にそこが彼の私有地なら、私にカメラを使わないよう命じるのは納得できる。あるいは公道を管理する自治体と警察がフランクル氏を「一時的な所有者」として認めているなら、やはり彼は禁止を命じることができるだろう。

 

■権利はどちらにあるのか

 

私は動画撮影することによってフランクル氏の権利を侵害しただろうか。それよりむしろ彼が私のカメラを使う権利を侵害したのではないか。

 

フランクル氏が撮影をやめてほしいと思ったことは事実である。もし私が彼の言うことを聞かず撮影を続けたとすると、彼は怒って演技を中止した可能性が高い。そうなると私を含めて誰も撮影はもとよりショーを楽しむことができない。結局皆が損をするので、私は即座に撮るのをやめたわけである。

 

問題の原因はフランクル氏にも私にも明確に歩道の使用権が割り当てられていないことにある。その場所は公道なので誰のものでもない、したがって誰にも優先使用権がないというのがよくないのだ。もし慣習的にでも権利が割り当てられていればうまくいく。あるいは政府や裁判所が恣意的にでもいいので法律によりはっきりと権利を割り当てている場合はこういう問題は起こりにくい。

 

■誰が権利を決めるべきか

 

ある場所の使い方はその場所の所有者が決めるべきであるという経済学的大原則がある。これはインセンティブ構造上また経済効率的に、そうしたほうが大抵の場合いいからだ。

 

たとえば祭りの舞台やコンサートであれば、その催しの主催者が権利配分を決めるべきである。撮影行為をする者の入場を事前に禁止・制限すればいい。ここでは両者が明示的にであれ暗示的にであれ事前にそのような契約を結んでいると考える。

 

通常の、ある場所の権利を借りて行なうコンサートは撮影禁止というのがフォーカルポイント(常識的な均衡)だろう。屋外、特に無料のイベントでは禁止されていないことも多い。問題は大道芸人ストリートミュージシャンの場合はどうかということだ。もっと一般的に言えば、道を歩いている芸能人にカメラを向けてはいけないか。公園や路上では著名人の権利が一般人の権利よりも優先されるのか。ビデオ撮影をして後で楽しんだり、他人に見せて楽しんだりする権利は一般人にないのか。ただショーを行なうことで自動的に見物客の行為をコントロールしてよいことになるのか。

 

大道芸人ストリートミュージシャンの場合、おそらくその公園や道路を管理する自治体が条例ではっきり決めればいいのだろう。だが注意すべきなのは条例は議会で政治的に多数決で決まるということである。こういう民主的決定は政策の長所と短所(損得)を正しく計算できず、そのためろくでもない結果すなわち法律をもたらす可能性が高い。

 

■法律が時代に合っていない

 

今や誰もがスマートフォンで手軽に高画質な動画を撮れる時代である。芸能人が何かやっているのを見かけたら撮りたくなる人も多いだろう。私のように注意書きに気づかないまますぐに撮影を始める人も少なくないと思われる。そのうちフランクル氏は、撮影禁止にするのが割に合わないことに気づくだろう。いちいち注意していたのでは演技が始められないからだ。

 

一般的に公園や路上での芸能人撮影を一律に禁止するような法(著作権法などを含む)については次のようなことが言える。誰もがスマホをもつようなデジタル時代においては、多くの人の楽しみ(権利)を奪うと同時に、監視を始めとする法の執行費用が莫大なものになるということである。