アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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今井町:ゲーテッドコミュニティあるいは無政府資本主義の歴史的事例

Wikipediaから引用・抜粋。太字と傍線はanacapによる。

中世日本の自治都市

ヨーロッパの自由都市に似たものは日本にも存在した。博多や堺、今井町がその典型的な例である。

博多は、室町時代を通じて年行司と呼ばれる12人の豪商の会議によって市政が運営され、日本史上において初めての自由都市であった。堺と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに戦国時代には戦国大名の争奪の対象となり、九州・中国地方の諸大名により侵略と破壊を受けるも、豊臣秀吉の手で再び町人の自治都市として復興された。江戸時代には博多の那珂川対岸に黒田氏が福岡城とその城下町を整備し(福岡)、また黒田藩も博多の町人自治を広く認めたため、城下町・福岡と商いの街・博多とで機能分担する双子都市が成立した。その後、明治時代に福岡と博多は統合され福岡市となった。

貿易と銃器の生産で潤った堺では、36人の会合衆(えごうしゅう)による自治が行われ、防衛のための武装組織もあった。しかし、織田政権が成立すると自治は大きく制限されるようになり、織豊政権による直轄地化、さらに大坂城城下への強制移住によって自治都市としての歴史に幕が下ろされた。

また、今井町浄土真宗の布教拠点として寺内町として成立し、織田信長武装放棄させられ江戸幕末までの300年間、自治都市として発展することになる。周囲に環濠を巡らせ、9つの門を設け番屋を設置して町掟を決め自治自衛を徹底した。また17世紀後半、藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」を流通し繁栄した。

 

日本の自治都市

日本でも、戦国時代から江戸時代にかけて、都市民(町人)の自治による都市が存在した。博多、堺、今井町などがある。

今井町はもともと興福寺領であったが、永禄年間に一向宗の布教拠点として顕如上人から寺号を得て今井兵部と今西與次兵衛によって「称念寺」を中心に寺内町を形成した。その後、環濠城塞都市化して織田信長軍と闘ったが、津田宗及の斡旋で武装放棄した。信長から「万事大坂同然」とし特権を許されて商工業を盛んにし自治都市として発展し「今井千軒」・「海の堺、陸の今井」と言われるまでになる。17世紀後半、5代将軍徳川綱吉の頃に幕藩体制が整うと、今井にも代官が置かれ、幕府領として支配されることになる。しかし、農村の多くが20~30軒程度だった当時、1千軒もの家を有する今井町は破格の規模であった。しかも、肥料・木綿・味噌・醤油・酒・材木などの取引も盛んなうえ、大名相手の金融業も活躍し、藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」も流通した。これほどの財力は幕府にとっても大きな魅力であったので他とは違う支配体制で優遇した。つまり、「惣年寄」を置き、行政権と司法権を与え、自治的特権を与えられたのである。環濠には9つの門を番人が警備し、親戚以外の者を町内に泊めることを禁ずるなど、町独自の掟も決められ、自治自衛が徹底された

 

今井町

今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市にある町である。中世戦国時代の町並みが残ることで知られ、世界的にも注目されている。

1571年(元亀2年)松永久秀三好三人衆と和睦して信長に反旗を翻し、信長包囲網の一環として石山本願寺と呼応した。 今井郷も石山合戦の際には、石山本願寺三好三人衆について織田信長に反抗し、堀を深くし土塁や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き、最前線である西口に櫓 (城郭)を設け、今西家を城構えとし、環濠城塞都市となった。戦争を仕掛けるためでなく自衛のためにつくった、世界でも数少ない要塞都市の一つである。堀は場所によって違うが、幅が5メートルから7メートル、深さは2メートルほどもあった。

1575年(天正3年)、織田信長の降伏勧告を拒絶した在郷武士団や長島一向一揆の牢人などを中心とした今井郷民が蹶起し、佐久間信盛を大将とした明智光秀配属の筒井順慶率いる織田の軍勢と半年あまり戦ったが、結局降伏を余儀なくされた。 明智光秀と親しい堺の豪商津田宗及の斡旋で今井郷に対して11月9日に赦免状が与えられた。寺内町の強い団結力と抵抗には、さすがの信長も一目おき、1575年(天正3年)冬に今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に萬事大坂同前として、この町に大坂と同じように自治権を認めた。このように、今井郷に対する処遇は、他の一向宗寺内町の扱いとは別格で寛大なものであり、自治都市として「海の堺」「陸の今井」と並び称されるまでになり、栄えた。特に堺との交流は深く、竹内街道を通じ江戸時代まで毎日行き来した。

また、秀吉から認められて明治初年頃まで残存していた町の入口に開く番屋まで付属した9つの門(東側3ヶ所、西側1箇所番屋付設、南側3ヶ所、北側2箇所)は自治都市としての特権の象徴であった。これらの門は朝6時から夕方6時まで開閉され、夜間は4門のみを指定して吟味の上出入りせしめた。特に大坂・堺への玄関口である本町筋の西門は番屋を建てて厳重なのもとした。また、門番は門の内側に屯して夜警を兼ね、町内巡邏の任に当たっていた。町内には旅籠屋が全く無く来泊者は通常一日を限度として、二泊以上宿泊する場合は町年寄に届出が必要であった。 このように、町独自の「町掟」も決められ「明和元年町内掟書」1764年(明和元年)によると17条にわたって、上納・売買・消防・自身番の規定・博打の禁止・道路の保全・濠溝の保護・焙煤清掃・節約勤倹など町民相互の社会道徳や保全を説き諭し、自治自衛が徹底された。ことに消防の規定は厳格で、古来から火事のない町である事が窺い知ることができる

その後、1679年(延宝7年)に今井町天領になり幕府直轄となった。この時、今井氏と今西氏は武士の資格を停止せられ、今井氏は純然たる釈門に帰し、今西氏は惣年寄筆頭となった。この時点で凡そ104年間続いた自治都市制度を終焉させることとなり、環濠西側の外部に同心屋敷と呼ばれる代官所が設けられた。しかし、幕府にとって今井町の財力は大きな魅力で、他とは違う支配体制で優遇した。つまり、今西家、尾崎家、上田家の三人の惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権を与え、自治的特権を与えたのである。なお、死罪については代官に引き渡した

元禄年間には「大和の金は今井に七分」と称されるまでになった。 17世紀後半から18世紀初頭の様相をよく物語る史料として、 「寛文年中より宝永年中迄者、銀札多通用仕、米穀ハ吉野郡下市・上市・五條辺より銀子持参仕、買ニ参、味噌・醤油・酒・油之類、東山中重ニ引請、二里・三里四方江商売仕候、繰綿並古手・木綿類、武州・相州其外国々江送り出し、辺土之場所ながら、三四拾年以前迄は殊之外繁昌仕候御事今井町が当時、地域市場の中心として、また繰綿をはじめとする遠隔地商取引の拠点として「殊之外繁昌」していた様子がよくうかがえる。

また、1634年(寛永11年)には幕府から許可され藩札と同じ価値のある独自の紙幣である(「今井札」)が発行される。各種商工業・金融業の展開、周辺農村における所持地の増大は、そうした当町の繁昌ぶりを示すものである。町人の中には桜田御料の掛屋をした尾崎家や福井藩の蔵元を務めた牧村家などがあり、各藩や旗本の財政に関与したものも多く、たびたび調達金や上納金を上せている。 したがって、代々の支配者からは今井町は有力な領地として民心の確保に努められた。株仲間は同業者の営業組合であるが、為政者側からは、商業上の取り締まりに便宜であり、鑑札料や冥加金の上納を受けることができたので奨励している。このようにして、商業の規模と性格によって大坂・堺に属した株仲間、国中全体に通じるもの、今井町のみのものと種々とあったが今井ではこの制度が早くから盛んであった。

経済的に豊かになった町民は、武野紹鴎に茶道を師事した今井宗久・宗薫父子や三条西実隆に和歌を師事した十市遠忠などの影響を受け文化芸術的気運をつくりあげる好条件に恵まれた。「今井町明細記」に茶道・華道・能楽・和歌・俳諧・画・書道・箏・三弦・蹴鞠・お囃子などの文化・文芸に従事し、大阪・堺・奈良などとの文化交流も盛んにしたことが詳しく載っており、1667年(寛文7年)に今西正盛編集の句集『耳無草』(『詞林金玉集』)に交際の深かった松尾芭蕉が発句「夕顔の花に心やうかりひよん」を入集している。今井の特産物として蘇武の井水・下保童園・今井鯖すし・今井酢・燈し油・実綿操綿・京入縞・紺絣類・六斎遊び(毎月3日、8日、13日、18日、23日、28日)とある。また、農村の多くが20~30軒程度だった当時「今井千軒」と呼ばれ、1679年(延宝7年)には家数1082軒、人口約4400人を数えた。1720年(享保5年)の改めによると、付近の村むら92ヶ所にわたって、延べ414人3200石余りの高を所持しているが、最盛期には7、8000石におよんだ時代もあったという。

18世紀に入ると次第に、町勢は沈滞傾向を示すようになったが、今井町はその後も奈良中南部の一中心地として重要な位置を占め続けた。 幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。

また今後、今井町が観光地としてだけでなく、いかにして293年もの間「自治都市」として存続しえたかを後世に伝えていくことは、地方分権を考えていかねばならない現代において、重要な使命であると保存に取り組む人々の中には考える人もいる。