マイノリティとしてのリバタリアン
残念だがリバタリアニズムは人気がない。市場において小さな声しかもたないということだ。
キャプランがリバタリアンのことを民主主義におけるズィンミーだと書いていたのでちょっとなるほどと受けた。民主主義という宗教社会における、市場成立のために実用上許容された被差別集団ということか。
知識人あるいは大学というのは、歴史的にずっと市場(商業)コンプであり、市場に否定的か、少なくともそれよりも「公正な」民主主義(政治)に価値をおく人たちだ。リバタリアニズムはアカデミズムにおいてはさらにマイノリティである。
だがちょっと待て。ジュンク堂に行けば知識人たちによるおびただしい数の新刊新書が並んでいる。消費者が手に取りたくなるようにデザインされ、うまくタイトルも考えられている。彼ら知識人に給料を払う学生が確保できるのも、大学広報部の宣伝や入試部の努力のおかげだ。いやいやMacBookがなければ本の原稿も論文も書けないじゃないか。
むしろリバタリアンからすると、なぜ市場の中で生かされながら、そこまで市場(商業)に敵意をもつのかがわからない。それとこれとは別なのだろうか。彼らは行きすぎた市場競争(例えばFlash Playerを頑として搭載しないiPhoneなど)について文句を言っているだけで、概ねその基本機能は認めているのかもしれない。市場がなければ生活できないということを。
突然だが、スマートフォンの機能やデザインを民主主義(政治)で一つに決めることを考えてみてほしい。きっとOSはAndroidで統一され、市場の混乱もなくなるだろう。赤外線やおサイフによるネットワーク外部性のおかげで、より円滑なコミュニケーションが可能になるだろう。だが、これはろくでもない社会だ。
今日はこのへんで。
1. 民主主義はマイノリティを排除する。市場はそうではない。
2. マイノリティこそ市場を擁護しなければならない。
3. 民主主義者こそ市場におけるズィンミーなのではないか。