アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

★無政府資本主義の理論(経済学)◆リバタリアニズム▽海外リバタリアンの文献翻訳■時事問題・日常生活▼ロンドン暮らし

差別がないという地獄 その2

Hoppe, Uncertainty and Its Exigenciesの翻訳続き。

■保険の制限

保険グループ内で個人は「同一」でなければならず、保険事故は予測できない事故という形で起きなければならない。ではどういう保険が「不可能な保険」といえるのか。結果につながる要因が何か部分的にでもわかっていればそれは保険できないし、ある個人が結果をコントロールできる場合も保険はできない。

つまり個人の行動によって影響を受けない、あるいは個人でコントロール不可能な場合にのみ保険は可能である。たとえば自然災害は保険可能である。しかし自殺が保険適用となる生命保険会社はつぶれるだろう。同じ意味で自宅放火を認める損害保険会社もない。

失業保険はどうか。この場合「保険」というのは言葉による巧みなごまかしである。上司に言いたいことを言えばクビになるし、無給でいいならどこでも雇ってもらえる。結果は個人責任の関数になる。健康保険はどうか。たとえば朝気分が良くなくベッドから出られないというリスク。そんなものをカバーする保険はない。ビジネスの失敗も保険対象にはならない。経営者は何らかのコントロールができるからであり、雷が落ちるわけではないのである。

病気についても偶然な事故といえるような場合は保険可能であるが、大部分の健康問題は個人の責任に帰すものである。健康保険と医療改革に関する論争では必ずそういう「保険できないもの」があるという事実が見落とされている。1922年例外的にミーゼスが人間の意志と健康・病気が不可分であることを正しく指摘しているぐらいだ。

話を戻すと、ベッドから出れないことを保険すれば人は仮病を使うだろうということだ。保険会社はそのカバー範囲を厳しく制限しなければならないだろう。これはたとえば新しく発見されたリスクなどもカバーできないことを意味する。また「実費加算方式」などもありえない。家が焼けたからといってより大きい家を立ててくれるわけではない。そこにきてメディケア(高齢者医療保険)やメディケイド(低所得者医療保険)は医者が必要だと言いさえすれば自動的に出費がカバーされる。

また利便性からいって保険は一般的に現金で下りるだろう。特定の業者・機関のサービスが「現物支給」されるのは便利でない。さらに保険の規模は似たような人たちの小さいグループに制限されることになろう。

以上が自由市場における保険のあり方である。ここから考えると現在の制度がいかにいびつなものかわかる。異なるリスクグループをいっしょのプールに入れ、保険すべきでないものを保険している。現在の保険制度は大部分所得の(システマティックな)再分配装置になっているのだ。いったいなぜなのか。それは政府の規制である。

(続く)