アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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『無政府国家への道』紹介その10

第四章 自由放任主義 より

・国家は物を統制すれば、それだけ人をも統制する。なぜなら、人は生きるために物を必要とするからである。

・19世紀の自由放任主義経済学者であるギュスタブ・ド・モリナリは、郵便・輸送・通信・文化・慈善・道路・教育および貨幣は民営化されねばならない、という考えを、しばしば鮮やかな語り口で擁護した。「イギリスの場合、道路は私人の掌中にあり」、その資金は通行料金によって調達されているが、「これほどよく整備された道路はどこにも見られない」とかれは書いた。

・国家は偽金作りである。近代の夜明けとともに、特にアムステルダムで私的な貨幣を制定するいくつかの試みが確かに見られたが、黎明期の国民国家の絶対主義によって、それらの試みはすぐに却下されてしまった。

・自由貨幣制度の場合、政府はもはや、貨幣を増やし、その価値を低下させることによって、赤字をまかなうことはできないだろう。

保護貿易主義は横暴で、無益であり、不条理である。1876年のニューヨークの新聞の売り子について、モリナリは次のように述べた。すなわち、売り子たちは「靴の組合協定値段が国民の足よりもむしろ国内の皮革産業を保護したので、節約してはだしで歩いている」。

・経験はまた経済発展が自由と自由放任主義を仲介とすることを教えてくれる。国際援助と新興国の経済発展との間にはほとんどいかなる相関関係もないが、これに対して、現地政府の干渉とそれらの国の後進性との間には重要な相関関係が存在する。

・浪費という概念は主観的なものであり、ある人々の目には浪費と映るものも他の人々には有用であるだろう。各人はどうすることが自己の所有物の有効利用、あるいは浪費であるのかを決定する。浪費は主観的なもので、個人的独立の本質的な表現であり、称賛されねばならないであろう。

ハイエクが主張するように、自由の価値は自由から生まれる思いがけない予測不能な行動の可能性にある。われわれには、自由の特定の制限がわれわれに何を失わせるか、めったにわからないだろう。