アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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蔵研也『デアル⇔ベキダ』を読む

蔵さんの『デアル⇔ベキダ』が久々に来たと思ったら、一章ごとしかも次々にアップされている。私はじっくりゆっくり注意深く、また過去の著作を参照したりしながら読んでいるので、全然追いついていない。現在、2章の真ん中辺り。昔からの無政府資本主義者である私には、これまでの著作の中で一番おもしろい。

私は生まれてこの方ずっと自然科学に興味はないが、人間の脳や遺伝といったことには例外的に関心があった。もっともそれは文系的関心の一環というべきもので、高校のとき以来たまに顔を出す程度のものだった。大学では合理的個人の意思決定からその集合的帰結を考える価格理論・ゲーム理論に強く惹かれた。最初のシカゴ学派との出会いが決定的で、その後ナッシュの崇拝者となった。

やがてすぐに無政府資本主義、すなわち個人主義的・市場主義的で合理的なアナーキズムと出会った。一通りそれを学んだ後は、日々ずっとそれについて考え、それをいつも現実と照らし合わせてチェックしてきた。合理的・功利主義的個人を常に想定するのが何につけても最も無難で身の安全のためであるし、いやそういう個人は普遍的ですらあってその想定は理にかなっていると考える。またそれは数学的に容易に扱うことができるために様々な利益をもたらす生産性の高い思考法である。

私はそういう正しい経済学の仕方で説得的な無政府資本主義の議論はできると思う。しかし、実際無政府資本主義社会がどう実現するかということを考えると、あるいはなぜ人々が無政府資本主義について通常想像もしないかということについて考えると、人の進化論的な心ということに行き着く。なんと私は最初の人間の脳や遺伝への関心というところに戻ってきたのだ。

読み始めたばかりなので以下は私の予想に基づく本の案内である。

タイトルからはわかりにくいが『デアル⇔ベキダ』は人々が何をどのような理由で考え、それがどう行動に結びつき社会が形成されていくかを進化論的に説明する本である。そしてそれは正しい仕方の経済学でもある。同時に、著者の狙いではないかもしれないが、大部分が標準経済学と無政府資本主義をバックアップするものになっている。

最後に前作から一つ引用しておこう。これはまさに私がいつも考えているようなことであり、この『デアル⇔ベキダ』がどこらへんのことをどういうふうに考えるかというイントロダクションになっている。

日本国憲法15条2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあるが、無政府主義者であり、進化論者である私は、これは不可能を当為命題化したものだと考える。人がそうであるべきだという規範的な命題が憲法に規定してあるからといって、そこで働く人びとの行動が実際にそうであると考えるのはユートピアンな理想か、パロディか、あるいは詭弁だろう。

蔵研也『無政府社会と法の進化』第2章 前提1:進化論
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic_society1.htm