アナルコ・キャピタリズム研究(仮)

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私有コミュニティから理解するアナルコキャピタリズム:問題は自然権論か帰結主義かということではなく、無政府資本主義かそうでないかということ

資本主義のトラック』はデイビッド・フリードマンによるスーパーMust-Readなエッセイである。短いエッセイであるが、これを読むと自然権リバタリアニズム帰結主義リバタリアニズムの違い、また彼の考えるアナルコキャピタリズムがどのようなものかというのがよくわかる。絶対に読むことをおすすめする。

世間ではリバタリアニズムというと何か無責任の馬鹿が主張する自由放任の原理主義だと思われて嫌われているところがある。これは自然権あるいは消極的自由のロジックを突き進めて行った結果の悪い方の側面だが、結局のところはどんなリバタリアン実利的な理由からそれを支持しているのだ。

このエッセイの中で彼は、リバタリアン社会あるいは無政府資本主義社会において、なぜ強制的・政府的な存在である私有コミュニティが認められるかということについて、自然権論的・原理主義的な理由を排して功利主義的・帰結主義的な理由からのみ説明している。またそこには彼の考える無政府資本主義についての重要な示唆が多く含まれている。

普通の人あるいは自然権リバタリアンの人がこのエッセイを読むと、彼の言うアナルコキャピタリズムはいわゆるリバタリアニズムとはかなり違うものなのではないかと思うかもしれない。実際デイビッド・フリードマン単にリバタリアンの言説を裏付ける経済学者であると言っていいかもしれない。

このエッセイを1パラグラフで要約すると、詰まるところ私有コミュニティは逃げられるから政府ではない。マンションの管理組合は政府ではないのだ。これは原理主義的説明である。これに対しデイビッド・フリードマンソ連製のトラックを引き合いに出し、性能とサイズ・生産インセンティブの観点からソ連的でない制度すなわち私有コミュニティの利点を説く。アメリカ製のトラック(むしろドイツ製や日本製というほうがピンとくるが)つまり資本主義のほうが、ソ連製のトラックつまり共産主義あるいは民主主義、政府より優れている。

私は以下の事例を悪法のケースに入れるべきかどうかを考えていた。産経新聞の伝えたところによると、大阪府交野市に住む女性が所有するマンションの1階をパチンコ屋にすることを思いついた。110メートル先に小学校があり、市の条例(150メートル)では違法な出店になるが、府の条例(100メートル)では合法な出店になる。ちなみに国レベルの条例すなわち風営法では200メートルである。(偽装ラブホテル問題も興味深い。)

どのレベルの法であろうとリバタリアン的には「禁止区域」より「建築主の権利」が優先されるように思われる。またこの問題は楳図かずお邸訴訟(住民側敗訴)とも似ている感じがする。これは単純な景観問題であり、自分たちの見たくないものを建ててくれるなということであるが、大阪のパチンコ・風俗規制にしてもその主な理由は子供たちに見せたくないという親の願いだろう。

消極的自由を守ることのみを目的とするリバタリアン法からすればこのような建築規制をする風営法・景観法は間違いなく違法である。言い換えれば、小学校や地域住民に対して最初から与えられる特権はないということである。

だがデイビッド・フリードマンや私のような帰結主義リバタリアンは、このような消極的自由や特権といった議論にはあまり納得せず、別に実利的な理由でそれを説明しようとする。そして場合によっては交野市や武蔵野市の地元住民が建築主に対し勝訴する判決を出すかもしれないのだ。仮にその禁止法が住民の需要によく応えたものであり、つまり住民にとっての価値が大きいために(支払い意思額でマンションオーナーに勝つ)効率的な結果をもたらす場合である。

資本主義のトラックには、近所の同意なしにはドアの色も変えられないのだという同僚の話が出てくる。それは私有コミュニティの契約なのである。交野市あるいは同市星田を私有コミュニティとして見てみよう。(それは実際簡単に「逃げられる」政府だ。)そうすればパチンコ屋の出店が差し止めになることもあるはずだ。だがこれは勝手に私有コミュニティと仮定した話であり、現実にそんな私的契約は存在しないし、認知されていない。地方自治体は私有コミュニティではない。

こうして一見自然権主義リバタリアン帰結主義リバタリアンの間で異なる答えが出されたように見える。この相違あるいは「すっきりしなさ」はいったい何が原因か?それはやはり結局のところ「場」が私有化されていないということなのである。仮に市の条例と府の条例はどちらが優先されるべきかという問題を立てて、強制度の差や効率性について考えてみても私は明快かつ納得のいく答えが出せない。それよりもっと根本的なこと、つまり場が私有化されていないことや2重基準があるということ(しかも大差ない)が問題だと考える。要するに問題の立て方が間違っているのだ。

よって私はこの事例を、リバタリアン間で意見に相違が出てくるケース、あるいは帰結主義者がはっきり答えられない(誠実だが頼りない)ケースとあきらめるより、無政府資本主義でないから、つまり場の所有権がはっきりしないからだと言って堂々と切り抜ける。

自然権リバタリアンにしても帰結主義リバタリアンにしてもその主張は究極的にはいつも同じなのだ。つまり選択の自由があり、私的な契約があり、顧客の需要に応える法がある。強制や全体主義に反対する。私有財産権が否定されない。そういう制度が最高に正義だし効率がいいだろう。他のどの制度よりも望ましいはずだ。

無政府資本主義社会というのは要するに日本国政府はなくなるが交野や星田という私有コミュニティが残る社会である。あるいは国際人権条約で国家移動の自由さえ保証されれば、事実上の無政府資本主義は簡単に実現できる。いつでもどこにでも逃げられるということは私有財産権が保証されるということであり、国家が民間保護機関のように競争することを促すからだ。

資本主義のトラックと交野のパチンコ屋マンションの話はリバタリアニズムについて様々なことを教えてくれる。そして私有コミュニティの存在こそがアナルコキャピタリズムをそれほど遠くにはない、現実味のある話だということを最もよく示してくれると思うのだ。