anacap's blog

リバタリアニズム関係の翻訳をお届けします

ツイッターはなぜすごいのか

「自分のランチについて世界に発表するなんて、他にやることがないのかな。」

 

数え切れない数の人が、ツイッターについて私にこんなことを言ってくる。私はもう相手にするのをやめた。彼らはお高くとまり、FacebookYouTube、Angry Birds、あるいはスマートフォンやデジタルライフそのものに対しても見下した態度をとるのだ。

 

もっとも、インターネットをまったく拒否するという人は最近ではほとんどいなくなった。10年前はそれがふつうだったのだが。今は何か特定のアプリを拒否するというふうに変わり、自分の時間はとても貴重なんだ、子どもの世話で忙しい、そんなものはゆとり用のくだらないおもちゃだ、などと言って無視する。

 

Facebook,、LinkedIn、Pandoraについては前にも書いたことがある。それらの人気が妥当というだけでなく、人類の福祉にとてつもない貢献をしているのだと。共通するのは、個人の意志の力、そしてダイナミックに自己組織化していく自由連合ということである。人々の間に天地創造以来存在していたバリアが壊され、新しいサービス、学習の方法、人とつながる手段を提供しているのだ。

 

さてツイッターはどうだろうか。人々がひどく嫌うことを愛してやまないこのサービス。使わない人は「ツイッター(嘲笑)」と言う。あらゆる人気のソーシャルアプリのなかでも図抜けて使いやすいが、同時に、誰ともつながりのない初期状態では、最も生活に組み込むことが難しいアプリだ。

 

大人たちはサインアップしたあと、それをじっと眺める。フォロワーは一人もおらず、自分もまた誰もフォローしていない。それはまるでマーレイの亡霊のようだ。もちろん、あなたはランチに食べたサンドイッチについて、いつでもニュースを送信することができる。だが、そんなことをして何になるのだ?その点Facebookは、大人がウェブサイトに(皮肉にも)求める満足を、ずっと即座に与えてくれる。ツイッターは自分で構築しないといけないアプリである。

 

でも考えてもみよう。失業者数が発表されるときは通常、私は労働統計局からメールを受け取るのだが、この前など私はメールが来る前に数字を知っていたのだ。つまり数字の裏にある残酷な現実を知っていた。大手の新聞がいかにその数字をいじくりまわすか、私にはわかっていた。私は公開された図表にアクセスし、労働市場の動向が、他の市場動向とどう関連しているかについて見ることが出来た。そして私は自分が評価した図表を再投稿し、それに自分で考えたことを加えることにより、自分自身でニュースに反応することが出来たのだ。そしてようやく、統計局からメールがやってきた。

 

以上はツイッターの日常的な利用例である。だが、これは無限の利用可能性のうちの一つの例にすぎない。アプリを落とし、気になるものをフォローする。一度始めて使えるようになったなら、この一見軽薄な装置が、とてつもなく驚異的なものなのだとわかり始める。ツイッターというのは、あらゆる情報の生産と消費を、極端なまでに個人的・民主的・普遍的なものにする。それは世界をカスタマイズ可能なコミュニケーションの市場に変えるという、歴史上どの世代も経験したことがないものである。

 

このカスタマイズ性のために、ツイッタラーはどうでもいい話で時間を浪費する、中身のないバカだと揶揄される。だが、政治的な革命状態における人々が、ツイッターを使い意思を伝達しあい、戦略を練り強力な軍隊の裏をかくことによって、独裁者から逃れ、組織化されるのを見るとき、あなたは立ち止まって考えざるをえないはずだ。

 

情報を生み出す手段という点では、どのユーザーも他のすべてのユーザーと潜在的に同じ力をもっている。もし影響力が変わってくる可能性があるとしたらそれはフォロワー数の違いだ(私は700人、レディ・ガガは2000万人)。だがそれは真の決定要因ではない。というのも、どんなメッセージもリツイートされる可能性があり、一人に送られたメッセージは、瞬時に1億4000万人に送信されうるからだ。

 

これは何を意味するか。ニューヨーク・タイムズとホワイトハウスが、たったいまピザ屋で自分のビールの注文を受けた店員と、技術的にまったく同じ力をもつということだ。メッセージの届き方は、完全に他のユーザーによって決定される。分配は常軌を逸した能力主義制度になる。

 

情報を消費する手段ということでは、あなたはどんな有名人や大御所、機関、政府高官のツイートにアクセスすることができ、一流のレポーターやその他の機関に何も引けをとらない。そしてこのことはレディ・ガガのような人たちがツイッターを好む理由でもある。公的な人物は皆このことを好んでいるだろう。ただし、この真実を瞬時に伝える強力な道具に最も脅かされている独裁者たちはそうではないだろう。

 

現在、ツイッターは1日につき16億件もの検索クエリを処理しており、また3億4000万ものツイートの送信に使われている。人気サイトトップ10の常連である。惑星に住む全員が無料でサービスを使うことができる。ビジネスモデルとしては、検索結果に表示される企業の広告ツイートから収益を上げている。また同時に、ツイッターフィードを自社サイトへ表示させるソフトを使用する大手IT企業に課金している。

 

あなたはツイッターに飛び込んで、派手なことをしてみたいと考えるかもしれない。でもすぐに不快な事実に気づくことになる。ツイッターはフォローしてもらう他人を招待できないというシステムなのだ。他人があなたの方に行かなければならない。この点ツイッターはFacebookよりも攻略が難しい仕組みだといえる。

 

まず最初のステップは関心のある団体や個人をフォローすることだ。彼らはあなたにフォローされたことを通知される。彼らがお返しにあなたをフォローしてくれる可能性はある。だが彼らにそうさせる手段はない。フォロワーを増やす一番いい方法は、この世界にどっぷりつかっている人にあなたを推薦してもらうことだ。ただ、それでもあなたのつぶやきに興味を持ってくれる人を相当数確保するというポイントまでの道のりは長い。

 

あなたはどうして思い悩むのか。他人のツイートに関心もなければ自分でツイートしたいこともないという人もいるだろう。そして彼は死ぬまでそういう態度を取り続ける計画だ。ツイッターからするとその人に価値はない。いっぽう、彼を除くすべての人々にとっては、ツイッターはありとあらゆるものに関する情報を入手し、中継するための素晴らしいソースである。それによって利益を得ない人は惑星上にほとんどいないということだ。

 

キャリアを積んでいく人にとっては、ツイッターのフォロワーという資源は、あなたがどこに住んで、どこで働くことになろうとも、つねに蓄積し運用される人的な資本の一部ということである。この意味において、ツイッターはあなたの自由とパワーにとって欠かせないものになりうる。それは所属する集団への依存を減らし、あなたが自分の人生をコントロールするのを助けてくれる。

 

ツイッターは有名人にとってはむしろ明らかに不可欠なものである。ビジネスについても同じことが当てはまる。あなたにフォロワーがいるなら(私はビジネスをフォローするのが好きです!)、特典やお得な情報をすぐに渡すことができるし、それもタダでできる。こんなにいいことがあるだろうか。

 

どんな個人にあっても、常に他人を必要とするし、他人に情報を伝えることは大事なことである。あなたは危険な目にあうかもしれない。すごいニュースを聞くかもしれない。助けを呼ぶ必要が出てくるかもしれない。こういうとき、あなたは自分の生死に関心をもってくれる人々という貴重なネットワークを構築し、備えてきたことをありがたく思うだろう。間違いなく、国家はあなたのことをあまり気にしていない。互いに気にかける、そういう連合をつくるのは私たち自身が行なうべきことなのだ。

 

こういうわけで私はツイッターに大変興味をもっている。あらゆる国々において国家の圧政から人間の自由を守る、という世界的な潮流をつくるためにそれが使われることを期待する。ツイッターに国境はない。ツイッターにとって国家は存在しないし、見せかけだけの国家も存在しない。ツイッターは誰の計画もフォローしない。ツイッターはどんな権威にも服従しない。それは自由な人々がつくる自己秩序の可能性を証明している。ユーザー情報を提出せよという政府の圧力にも屈しないツイッター社も本当に賞賛に値する。

 

ツイッターによって、個人一人ひとりが皆、個人的パワーの重要な要素をもった、私的統治のための単位になる。その要素とはつまり、この世で最も価値のあるコモディティすなわち「情報」を得ながら、いかなる瞬間にも世界とつながることができる能力ということである。

 

こういうわけで、ツイッターというのはとてもすごいものなのだ。

 

最後にどうぞ@jeffreyatuckerのフォローをよろしくお願いいたします。

 

(これはジェフリー・タッカー氏が2012年5月9日に Laissez Faire Today へ投稿した記事「What Makes Twitter Great」を翻訳したものです。)

理性的な道徳観とは自己利益のための倫理、すなわち生命尊重の倫理である

人生とは彼のもつすべての価値観を実現させうるものである。倫理とは自分のために行動することを意味する。それが命を尊重するということである。正しいことと間違っていることを見分けるのに、摩訶不思議で理解困難なものなどない。理にかなった道徳観が存在する。古来からの倫理観が教えるところによれば、人は自分のためではなく、神や国家あるいは「公益」のために人生の一部を献上しなければならない。今日、多くの人はこの教義をありのまま捉えている。すなわち数えきれない大量殺戮の原因であると。人々は倫理観をもち生命を尊重する方向に向かっている。理性的な道徳観とは自己利益のための倫理、すなわち生命尊重の倫理である。

 

Morris Tannehill, Linda Tannehill

THE MARKET FOR LIBERTY

2. Man and Society

リバタリアンの原理(非侵害原理)とは

私たちが提案する社会は一つの基本的な原理に基づいている。すなわち、いかなる人間も、またいかなる団体も(これには自身を「政府」と称するどんなグループも含まれる)、武力の使用、また武力を使うという脅迫、また(詐欺のような)武力に準じることを、他人や他団体に対して開始する権利を道徳上持たないということである。このことは、どんな人間であろうと、どんなギャングであろうと、またどんな政府であろうと、一個人に対して、彼が武力を最初に使い始めたのでない限り、道徳上武力を開始してはならないということである。それが最も地位の低い人間に対する最も軽微な武力だったとしてもである。

 

Morris Tannehill, Linda Tannehill

THE MARKET FOR LIBERTY

1. If We Don't Know Where We're Going...

他国の侵略から市民を守るために自国民を侵略する

兵器というのは民間人の仕事によって作られる。そしてこれらの兵器を買うための原資、および徴集兵にわずかな手当を払うための原資は、課税という手段によって民間人から差し押さえられる。(この徴集兵とともに軍隊という少数グループを作る)残りの兵士たちの給料についても、その原資は民間から徴収される。そこで政府が寄与することといえば、権力によって国全体の努力をまとめるだけである。権力とはすなわち徴兵や課税を行なう権力であり、これに配給制、賃金統制、価格統制、旅行制限といったより小さな強制が加わる。それゆえ「他国の侵略から社会を守るために政府が必要である」と主張することは「他国の侵略から市民を守るために自国民の侵略が必要である」と主張することと同じなのである。

 

Morris Tannehill, Linda Tannehill

THE MARKET FOR LIBERTY

15. Foreign Aggression

政治家の七つの大罪

成功した政治家というものは極端にうぬぼれがちである。自己イメージを膨張させながら、自分の地位について肥大した感覚を持ち、また見当違いの攻撃的、人権侵害的な感覚を持っている。彼らは市場競争がそうであるように同胞市民に奉仕するのではなく、自分たち自身へ奉仕しているのだ。それはまるで「七つの大罪」の見本市のようである。傲慢さが謙虚さに勝利する。すべての「所得再分配」活動家たちの心は嫉妬によって毒されている。人々は支配層エリートへ反対して憤怒する。昔から官僚制に付きものなのが怠惰である。支配権力に対する強欲とは政治という形態そのものである。暴食とは政府の権力層にたびたび見受けられるもので、それはいつも誇示的なライフスタイルと明白な富を伴っている。ビル・クリントンの弾劾裁判、そしてニュート・ギングリッチの下院議長辞任の引き金になった不倫問題は、ワシントンのリーダーたちが七つの大罪の色欲と無縁でないことをまたしても示した例である。(彼らのより大きな罪は市民と他国に対する色欲であるが。)

 

Thomas J. DiLorenzo

ORGANIZED CRIME: UNVARNISHED TRUTH ABOUT GOVERNMENT

50. The Real Ethics Problem in America

知的所有権の労働価値説

知的所有権の擁護者は財産権の基準として希少資源の先占ということよりも創造と労働のほうに焦点を置く。そのため創作者の労働に「報いる」ことの重要性を過度に強調してしまう。それはアダム・スミスの間違った労働価値説が、マルクスのより深く誤った共産主義的搾取観につながったのとよく似ている。上で示したように、アイン・ランドにとって知的所有権とは、ある意味において、生産的な仕事つまり労働への報酬なのだ。ランドと他の自然権論的知的所有権擁護者は、混合的な自然権を採用しているように思える。すなわち、時間と努力を投資する人は報われなければならない、あるいはその努力から利益を得なければならない、といった功利主義的合理化である。(たとえばランドは、遠い子孫は先祖の作品を創造したわけではないために報酬を受けるに値しないという論拠をもって、永久的な特許権と著作権に反対した。)

 

N. Stephan Kinsella

AGAINST INTELLECTUAL PROPERTY

Creation vs. Scarcity

知的所有権は研究開発投資を減らすと同時にイノベーションのインセンティブを小さくしている

功利主義は倫理的に問題があるだけでなく、首尾一貫していない。彼らは知的所有権法を取り上げ、その法がプラスの純便益をもつかどうか判断するために、「便益」から「コスト」を引いたりするが、その時は個人間の効用比較といった非論理的なことをせねばならない。そこに来て、すべての価値あるものが必ずしも市場価格をもっているわけではないのである―実際、どんな物にも市場価格などないのだ。市場価格をもつ物であっても、その価格はその物の価値の尺度にはならないということをミーゼスは示した。

 

最後に、個人間の効用比較問題と再分配の正義問題を脇に置き、標準的な功利主義の計量手法を使って前に進んだとしても、以下のことはまったく明らかでない。つまり、知的所有権法がはたして全体の富の変化(増加であれ減少であれ)につながるかどうかは、さっぱりわからないのだ。著作権と特許権が創造的な作品の生産を促すかどうか、また発明を促すかどうか、あるいはイノベーションによって増加する利益が知的所有権制度の巨大なコストを上回るかどうかということは議論の余地がある。おそらく特許権法がない世界のほうがよりイノベーションを生み出すだろう。たぶん特許の取得や特許に関する訴訟にお金を使わないで済むのなら、研究と開発(R&D)にもっとお金を回せるだろうからだ。また、20年に近い独占を当てにできないなら、企業はかえってイノベーションを起こすより大きなインセンティブをもつということもありうる。

 

N. Stephan Kinsella

AGAINST INTELLECTUAL PROPERTY

Utilitarian Defenses of IP